ゆるせぬこと。
日本でも、アメリカでも、
ゆるせぬことがあります。
薄っぺらい正義感。
これだけは、どうしてもゆるせぬ。
一番ゆるせなかったのが、環境問題に対すること。
某コマーシャルで聞いた言葉。
『地球温暖化に対して、私たちはどんなことができますか?』
この言葉を、専門家が言っているのなら、
どうしたらいいのかな、って考えちゃったりするけど。
企業の広告のために、うわべだけの台詞を言っている女優さん。
決して彼女を、またその企業を批判したいのではないです。
ただ、心から環境のことを考えているのだとしたら、
あの薄っぺらさはないと、私は、思う。
もともと、自分の専攻が環境科学でした。
今は森林学や、他にも興味があるのだけれどね。
だから、意地で過敏になってるところがあるのかもしれない。
でもね、思ったこと。
私が高校生のとき、オープンキャンパスで当時の第一志望の大学の、説明会っていうか、ちょっとしたお話をするところへ行ったんです。そこは、森林総合科学科っていったかな。で、彼らがどんな風にして環境問題対策をしているか、などなど語ってくれました。そこで、一番最後に説明くださっていた教授がいった一言が、未だに心に残ってます。
『自然を壊したのは人間なんだから、
それを元に戻すのが人間の役目なんです』
ぞくぞくってきました。
鳥肌が立ちました。
コレ、一見誰でも口にできそうな何の変哲もない言葉に聞こえますけど、違うと思う。これを、彼は本気で言ったから、私たちの心に響いたんだと思う。一緒に行った友達もみんな心うたれていて、その子たちは環境問題に興味があるわけでもなんでもないのに、すごく心打たれてた。
もう一つ。友達に付き添っていった、某アカデミーの服飾デザインの体験入学に行ったとき。このときも、私は大して服飾デザインってものに興味がなかったけど、話をしてくれる人たちや、実際の生徒さんの作品みてると、なんだかそのうしろに見える「光」みたいなものに圧倒されてしまいました。それで、こういう仕事もカッコイイなぁーって思ったりもしました。無論、私は他にやりたいことがあるので、そっちに進もう、とまでは思わなかったんですけどね。
何をいわんとしているかは大体お分かりだと思うんですけど、
気持ちが、本気かどうかってことなんですよね。
ここですごいのが、ドキュメンタリー番組の語りの人たちや、役者さんたち。彼らが私たちを感動させてくれるのは、それを分かってる人半分、あとは、技を持ってる人半分、くらいなのでしょうか。彼らの情熱は、放ってる言葉というよりむしろ、言葉を放つこと自体にあるんだと思います。そこに想いがこもっているから、放たれた言葉にも勿論力がある。
本気じゃない言葉は、すぐに分かる。
たとえば友達と話していてもそう。
誰かの言葉の引用だろ?ってすぐわかるときがある。
見かけだけかっこつけたって、すぐわかる。
だから、誰かに何かをいうときは、
いつも自分の言葉を遣わなきゃならない。
じゃなきゃ、相手に自分の本当の気持ちが伝わらない。
たとえそれが稚拙であっても構わない。
そこにはその人がいる。
だから
「環境について私たちができることを考えてみましょう」
なんて、深く考えて自分なりの結論を出したことがない人が、
言っても意味ない。
「戦争は悪いものだからなくさなきゃいけない」
なんて、戦争のことをろくに知らない先生が教えても意味ない。
それじゃ今の子供達に伝わるわけない。
先生以上に子供は何も知らないんだから。
本気で話しても分かってくれない人は沢山いると思う。
それは、仕方のないこと。
世の中には色々な考えの持ち主がいるのだから。
でも、本気じゃない人が語る言葉と、本気の人が語る言葉の説得力の差は、歴然としてる。
だから、ゆるせぬ。
言葉を濫用する、彼らがゆるせぬのです。
日本でも、アメリカでも、
ゆるせぬことがあります。
薄っぺらい正義感。
これだけは、どうしてもゆるせぬ。
一番ゆるせなかったのが、環境問題に対すること。
某コマーシャルで聞いた言葉。
『地球温暖化に対して、私たちはどんなことができますか?』
この言葉を、専門家が言っているのなら、
どうしたらいいのかな、って考えちゃったりするけど。
企業の広告のために、うわべだけの台詞を言っている女優さん。
決して彼女を、またその企業を批判したいのではないです。
ただ、心から環境のことを考えているのだとしたら、
あの薄っぺらさはないと、私は、思う。
もともと、自分の専攻が環境科学でした。
今は森林学や、他にも興味があるのだけれどね。
だから、意地で過敏になってるところがあるのかもしれない。
でもね、思ったこと。
私が高校生のとき、オープンキャンパスで当時の第一志望の大学の、説明会っていうか、ちょっとしたお話をするところへ行ったんです。そこは、森林総合科学科っていったかな。で、彼らがどんな風にして環境問題対策をしているか、などなど語ってくれました。そこで、一番最後に説明くださっていた教授がいった一言が、未だに心に残ってます。
『自然を壊したのは人間なんだから、
それを元に戻すのが人間の役目なんです』
ぞくぞくってきました。
鳥肌が立ちました。
コレ、一見誰でも口にできそうな何の変哲もない言葉に聞こえますけど、違うと思う。これを、彼は本気で言ったから、私たちの心に響いたんだと思う。一緒に行った友達もみんな心うたれていて、その子たちは環境問題に興味があるわけでもなんでもないのに、すごく心打たれてた。
もう一つ。友達に付き添っていった、某アカデミーの服飾デザインの体験入学に行ったとき。このときも、私は大して服飾デザインってものに興味がなかったけど、話をしてくれる人たちや、実際の生徒さんの作品みてると、なんだかそのうしろに見える「光」みたいなものに圧倒されてしまいました。それで、こういう仕事もカッコイイなぁーって思ったりもしました。無論、私は他にやりたいことがあるので、そっちに進もう、とまでは思わなかったんですけどね。
何をいわんとしているかは大体お分かりだと思うんですけど、
気持ちが、本気かどうかってことなんですよね。
ここですごいのが、ドキュメンタリー番組の語りの人たちや、役者さんたち。彼らが私たちを感動させてくれるのは、それを分かってる人半分、あとは、技を持ってる人半分、くらいなのでしょうか。彼らの情熱は、放ってる言葉というよりむしろ、言葉を放つこと自体にあるんだと思います。そこに想いがこもっているから、放たれた言葉にも勿論力がある。
本気じゃない言葉は、すぐに分かる。
たとえば友達と話していてもそう。
誰かの言葉の引用だろ?ってすぐわかるときがある。
見かけだけかっこつけたって、すぐわかる。
だから、誰かに何かをいうときは、
いつも自分の言葉を遣わなきゃならない。
じゃなきゃ、相手に自分の本当の気持ちが伝わらない。
たとえそれが稚拙であっても構わない。
そこにはその人がいる。
だから
「環境について私たちができることを考えてみましょう」
なんて、深く考えて自分なりの結論を出したことがない人が、
言っても意味ない。
「戦争は悪いものだからなくさなきゃいけない」
なんて、戦争のことをろくに知らない先生が教えても意味ない。
それじゃ今の子供達に伝わるわけない。
先生以上に子供は何も知らないんだから。
本気で話しても分かってくれない人は沢山いると思う。
それは、仕方のないこと。
世の中には色々な考えの持ち主がいるのだから。
でも、本気じゃない人が語る言葉と、本気の人が語る言葉の説得力の差は、歴然としてる。
だから、ゆるせぬ。
言葉を濫用する、彼らがゆるせぬのです。
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